物書きの本能
なぜ、文章を書くのか。
古代の昔にも、人は壁画を描いたり、儀式で舞踊を披露した。
隣人Tがいうように、これはヒトのDNAに刻まれているのか。歌うたいが歌を歌うように、踊り子が踊りで自分を表現するように、物書きがモノを書くのは本能なのではないか。
「承認欲求」という安っぽい言葉で片付けてほしくない。
物書きは脆弱な生き物だ。文章を書いて吐き出す、とてつもなく自信過剰でありながら、批判や批評に丸腰になる。自分の脳の中にあることを書きだして公に丸出しするのだから当然だ。
どんなにバカな人間か、どんなにつまらないことを考えているのかも露呈させてしまう。それでも、文章を書くことを止めないのは、なぜか。
たとえ文字を持たない民族でも、口伝えに語り継がれる「伝承」がある。私たちは昔から物語を作り、語ってきた。物心のつかない幼児でも物語を聞きたがる。
物語は時間の因果と分析である。私たちは過去の話を語り聞きそれを現在に分析し、未来の計画と予測を立てる。ストーリーテリングは私たちの遺伝子に刻まれている。
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本能のおもむくままに文章を書くことができたら、と思う。ビーバーが木の枝でダムを造るように、キツツキが木をつつくように。
「そこに山があるから登る」と登山家はいう。
私たちは、私たちの中に「語りたいストーリー」があるからモノを書く。誰もが美しい物語を持っている。誰もが語るべきストーリーを秘めている。
そして今日も文字を打つ。あなたが歌を歌うように、彼女が踊りを踊るように。
* エッセイ集「森で朽ちて倒れる木」に収録されています。Kindle Umlimited(読み放題)でも読めます。