【ケチの美学】そのプラスチック本当に必要ですか?
昨年の夏、我が家の近くの道路に自転車専用レーンが追加されました。モントリオールの街をサイクリングするのは好きなので、うれしく感じる反面、その分車道が狭くなってしまったことには、夫も辟易していました。
ただでさえ、車の運転がしにくい市内なのに、さらに運転しづらくなってしまったと、ぼやいています。
不便だから抑制されるもの
モントリオールは、日本に比べると路面駐車できるスペースがあり、さながら路駐天国といってもいいのではないでしょうか。ただ、近所の道路の路駐スペースが有料化されたりして、これまた私たちにとってはいい迷惑です。
わざわざ不便をもたらしてくれているような、行政の仕業に見えますが、逆に「モントリオールは車の運転がしにくいから」という理由で、自家用車の使用が抑制されるのかもしれないとも思ったのです。
日本のサランラップが恋しい
海外にもサランラップというものがあります。でも海外版のサランラップは日本のものほどキレがよくありません。ほしい分だけ取り出してスカッと切れることがないんです。
日本製のものは、たとえ100均で買ってもちゃんとしていますよね。海外に住んでいると、あのスカッとサランラップが恋しく思うことがあります。
こんな風に、日本人は本当に細やかに利用者の利便性を考えたモノづくりができる民族だと感心します。自分も日本人として誇りに思ってもいます。
ただ、こんなに便利な日本社会だからこそ、本当はよろしくない習慣が続けられているのかもしれないと、最近は考えるようになりました。
プラスチックケチ
こっち(海外)のサランラップは使いにくいので、という理由からだけではないのですが、サランラップはそれほど頻繁には使用しません。サランラップに限らず、できるだけ使い捨てのものを使わないようにしています。
「もったいないから」「ケチだから」という理由も否定しませんが、やはり「使い捨て」や「一度きりの使用」は、悪だと思います。
普段なら使い捨てるものを、もう一度再利用すれば、理論的にはゴミがその分半分になるはずです。もちろん使い捨てでしか使えないものもありますので、現実にはそううまく作用しないことも分かっています。
でも、日本で住んでいた時には平気で使っていたサランラップやビニール袋、ジップロック密封袋を、その他のもので代用できないか、一度使用ではなく再利用できないか、と常に考えるようになりました。
ケチ臭くてもいいんです
日本で同じことをしたら、さぞかし「ケチくさいなぁ」と笑われることでしょう。でも、だれだってゴミだめのようなところには住みたくないですよね。
世界の経済的に恵まれない地方では、プラスチックゴミとその悪臭に囲まれて育つ子供たちがいます。
私がいま、このサランラップを使用しなかったからといって、すぐにその子供たちの環境を変えることにはなりませんが、自分の手の中のプラスチックごみを見ていると、あの子たちの姿が思い浮かぶのです。
便利だからという理由でモノを消費するということを、私たちは見直すところに来ているのかもしれません。
ただ付け加えておくと、モントリオール市の交通マネジメントがあまりうまくないのは、やはり単純に、行政が賢くないからという気がしないでもありませんが。