今夜も独り飲み (1)マタドールの章
「いつものテキーラですか?」
久しぶりに来店した常連女性客に微笑みかけて聞いた。
「いえ、今日はね、テキーラじゃなくて、マタドールを」
七十か八十か、年齢はよくわからないが、かなりお年を召している。にもかかわらず、いつもシャキッと背筋を伸ばして座る粋なこの女性が、私はけっこう好きだった。
「かしこまりました」
マタドール、あまりカクテルの名前としてはなじみがないかもしれない。テキーラベースのカクテルで、パイナップルジュースとライムジュースを加えるのが基本のレシピ。さわやかな酸味にテキーラのパンチが効いた、飲みごたえのあるカクテルだ。
甘いマスクでぐっさり闘牛にとどめを刺す、その名の通り、闘牛士の花形にふさわしいカクテルだといえるかもしれない。
よく冷えた低いタンブラーグラスにカクテルを注ぎ、彼女の間にそっと置いた。
「ありがとう」
タバコを長年愛飲していたせいですっかり深く刻まれてしまったシワの中、彼女の目がキラキラと笑った。
「ああ、おいしい」
タンブラ―グラスをテーブルにコトンと置いて、ため息をつくように彼女が言った。
「今日はね、大切な人の命日なのよ」
「ああ、もしかして、マタドールでしたか」
ピンときた私がそういうと、彼女は恋愛中の女性のようなはにかんだ顔で、ふわっと笑った。
一か月に一度か二度お店に来る彼女は、フラメンコダンサー。長年スペインに住んでいたことがあり、闘牛士との色っぽい話があっても不思議はない。
「土曜日の夕方、お弟子さんの客演として久しぶりに踊るのよ。よかったらマスターも見に来てちょうだい」
そう言って、帰りがけにチケットをカウンターに残して去って行った。名前も知らないその女性客がその世界ではちょっと有名なダンサーだということは知っていたものの、ステージに立つ彼女を見に行くのはそれが初めてだった。
彼女の出番は一番最後、トリだった。
パルマ(手拍子)と男性の乾いた歌声にのって、黒いドレスをまとった彼女が舞台に現れた。まぶしく落ちるスポットライトの中で、彼女はびっくりするほど大きく見え、いつもカウンターの向こう側で笑う笑顔の人とは別人のようだった。
若いダンサーのようなパワフルさや激しい足さばきはないものの、抑えた舞踊の中に激情を感じさせるような演技で、会場の雰囲気が一瞬で変化した。
かつて美しい闘牛士とどんな情熱的な恋愛をしたのか、と思わず想像しないではいられない。その激しくふくよかなダンスに魅入られ、私は時間と彼女の年齢を忘れた。
気が付くと、舞台は暗くなり音楽も止んでいた。私同様、時間が経つのを忘れていた観客が、思い出したように拍手喝采する。誰もがアンコールを期待して、再び明かりがともった舞台に目を凝らしたその時、彼女が床に倒れたまま起き上がらないことに気が付いた。
ざわつき始める会場を、私はこっそりと抜け出した。救急車などが来る前にさっさと騒ぎから解放されたかった。
「私はね、もうおばあちゃんだけど、これでもダンサーなの。舞台の上で死ぬのが本望なのよ」
以前、語っていた彼女の言葉を思い出しながら、私は自分の店に向かって足を速めた。今後マタドールを作る時には、毎回あの女性のことを思い出すことになるのだろう、と考えながら…。
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