【小説】真夏の胡蝶 1/7
カナダにしては暑い夏だった。眠れるはずがないと思っていたのに、いつの間にか熟睡してしまったらしい。夜明けからの肉体労働が意外に堪えたのだろう。
玄関の扉をバンバンと叩く音で飛び起きた。一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなったが、すぐに隣人のクラウディアだと予想が付いた。
時計を見ると、すでに朝8時。眠い目をこすりながら、扉を開けると彼女が立っていた。
「パンを焼いたの。食べに来るでしょ?―――あら、まだ寝てたの?」
今年の三月、クラウディアが定年退職して以来、毎週金曜日の朝は彼らの家でブランチするのが習慣になっていた。しかし、今朝は、他に片付けなくてはいけないことがある。
「でも、今日は…」と断りかけた私を、背後から起きてきた夫が遮った。
「もちろん、伺いますよ」
慌ててTシャツと短パンを身につけてやってきた、彼の寝癖をちらっと見て、彼女はからかうように言った。
「ダン、あなたにしては遅い朝ね」
夫は髪の毛を直しながら苦笑して、
「ちょっと昨夜は、遅かったので」とごまかした。
「長時間発酵パンを作ったの、昨日から仕込んでね。エリはきっと気に入ると思うわ。少量のイーストでもふわふわに仕上がるの」
「OK。じゃあ、支度して一時間くらいで行きます」
「了解。じゃあ一時間後にね」
クラウディアが向かいの家に歩き去るのを確認してから扉を閉めた夫に、いてもたってもいられなくなって、つっかかった。
「ねぇ、どうして!? あなた、寝ぼけちゃったの? 私たち、悠長にブランチなんか食べてる暇じゃないのよ」
「落ち着くんだ、エリ。君のいうことは分かっているよ。でも、なるべく普段と同じようにふるまうんだ」
「そんなこといったって、今日の午後にはセイ親子が泊まりに来るのに…」
その日、ダンの古い友人でベトナム人のセイとその娘が泊まりにやってくることになっていた。セイはハノイ出身の法律家でボストンの大学で二年間の客員講師をしていた。任期終了間近だというので、カナダまで足を延ばして遊びに来てくれるというのだった。
「彼らの部屋も掃除しとかなくちゃ」
「二階の部屋なら、昨日掃除しただろう。覚えてる?」
「覚えてる」
と、神経質そうな彼の眼を見て答えながら、涙があふれてきた。ダンは私を引き寄せて、背中をさすった。
「大丈夫だよ。すべてうまくいく。きっと僕たち普通の生活に戻れるよ。さあ、支度して行こう。あまり遅いと、またクラウディアがうるさいから」
向かいの家に住むクラウディアとピーターは、この辺りでは珍しいアジア人の私を格別可愛がってくれた。ドイツ人のクラウディアは、両親の代からカナダに住んでいるが、戦後ここでかなり肩身の狭い思いをしたらしい。敗戦国同士、日本人の私に連帯感を感じてくれているのかもしれなかった。
ピーターは彼女より一年早く、去年定年退職していた。大型犬二匹と、どきおりチェーンソーやスノーモービルの轟音を近所に響かせるほかは、静かに暮らす夫婦だった。私たちは、それぞれ軽くハグして両頬をくっつけ合うラテン式の挨拶をし、吠えてじゃれたがる犬をしり目にキッチンへと導かれた。
リタイヤするまえから清潔に整えられていたキッチンだが、その後さらに清潔さに磨きがかかったようで、銀色に光るべきものはすべてピカピカに磨かれていた。
「十八時間発酵パンに挑戦してみたの」
と、クラウディアは自慢げに、黄金色に焼けたまあるいパンを取り出した。私自身も自宅でパンを作るのが趣味で、彼女とレシピを交換し合う仲だった。
「十八時間も発酵させるの?」
「そう。でも、イーストは極限まで少なくするの。そうしてゆっくり発酵させることで、パンが美味しくなるのよ。食べてみて」
そういって、パン用ナイフで切り分けられた一切れをかじってみると、モチッとしていい味だった。
「本当だ。もちもちする」
「でしょ。しかも、イーストの量が少ないから、イースト臭くならないのよ。過発酵も起きにくいんじゃないかしら」
私は普段、小麦粉三百グラムに対してドライイーストを三グラム程度入れるようにしていた。彼女の十八時間発酵レシピなら、イーストの量は一グラムでいいらしい。それでもじっくりと時間をかければ、ふんわり発酵するのだという。私はふと、「人間の死体は何時間くらいすると腐敗が始まるのだろうか」と考えた。
「なんかなぁ、臭いんだよ。あいつは絶対なんかやってる」
「えっ」と顔を上げると、ダンとピーターが、新しく引っ越してきた別の隣人のうわさ話をしていた。
「あいつん家、臭うんだよ」
ピーターが真っ白になった口ひげをなでながら言った。「あれはな、絶対、育ててるぞ」
マリファナのことだ。
「でも、麻薬を育てるのはすでに合法だ」とダンがいうと、
「上限がある。大量に育てるにはライセンスが必要なはずだ。ライセンスがあるなら、コソコソする必要があるかい?」
二年前、うちの隣の敷地に引っ越してきた若いカップルのことだ。私も一度会ったことがあるが、夫の方はちょっとアウトロー的な雰囲気がある白人男性だった。英語があまり得意でないようなので、まともに会話したことがないが、社交的なタイプには見えないかった。妻の方はきれいな若い女性で、英語も上手だ。それに二人の小さな男の子と二匹の闘犬を飼っていた。
この辺りは田舎なので、番犬として大型犬を飼うことはめずらしくない。しかし、彼らの犬はもっとも危険なタイプの犬だった。ああいう闘犬を飼うのもライセンス制にすればいいのに、とぼんやりと考えた。
「この週末はどうするの?」
と、尋ねるクラウディアにダンが答えた。
「ベトナム人の古い友人が遊びに来るんです」
「ベトナムから、遠いわね」
「いや、彼らは今、ボストンに住んでいて。オタワを観光した途中で寄るみたいです」
「あら、じゃあ自家用車でくるのね」
「一泊するの?」
「ええ、明日はモントリオール市内で別の友人に会う予定らしくて」
「ボストン」という言葉が引き金になったのだろう。ピーターがいつものトランプ大統領批判を始めて、私たちの会話はそこで途切れた。
たっぷりと2時間半のブランチを終えて彼らから解放された。ピーターとクラウディアの家から私たちの家までは数十メートルの距離がある。彼らの家を出て少し坂を上ると、駐車場の白い車が見えてきた。
5年近く乗っていたトヨタがとうとう使い物にならなくなり、昨年買い替えたばかりの中古のマツダだ。古い車に乗り慣れた夫は未だに、何でもボタン一つで操作できる今どきの車を使いこなせずにいる。
その白い車体を憎々しげに眺めていた私は、ふとトランクのドアから何かがはみ出ているのを見て、ギョッとした。
「ダン、何か出てる…」
「えっ」
彼も驚いて、早足で車の後ろ側に回り込んだ。トランクのドアの隙間から、黒いゴミ袋が出ていたのだ。今朝きちんと収めたはずなのに、暗かったせいで上手くできなかったのだろう。
ダンは軽く舌打ちして、すぐにトランクを開けに行った。車のカギは家の中だ。彼はいったん家を開けて、ジーンズのポケットから車のキーを取ってきた。
中古だからなのか、ダンが使い慣れていないからなのか、トランクを開けるのにはいつも運転席から操作する必要があった。彼はキーで車を開錠して、運転席からの操作でトランクを開けた。
トランクが開くと同時に、男の腕がだらんと外側へぶら下がって出てきた。私は悲鳴を飲み込んで素早く男の腕をつかみ、ぐにゃっとした手触りの物体をゴミ袋の端切れといっしょにトランクの中に押し込めた。
(この物語はフィクションです。実在の人物や団体とは100%関係ありません)
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