人はなぜ歌を歌うのかー歌うたいへ
「音楽は人間のDNAに書き込まれている、そう思わないか?」隣人のTが、突然そう切り出した。
彼は音楽をこよなく愛するカナダ人。ドイツ人の奥さんも音楽好きで、眺めのいい高台にある家から湖に向かって、大音量で60年代ロックをかけるため、近所に住んでいる地元のおばさんから警察に通報されたこともあるらしい。
歌で救われることもある
昔、中国の南京に住んでいたことがある。中国に行ったのは語学留学が目的だったが、中国に来て残念だったことの一つが「音楽」だった。
当時私はボサノバやジャズが好きだったが、中国ではそういったちょっとこじゃれた音楽はなく、今でこそノラ・ジョーンズやシャーデーなどは至る所で耳にするが、そのときは私が聞いて満足できるような音楽は皆無だった。
中国語学習のために日本人が少ない南京を選んだものの、少しホームシック気味だったある日のこと。ふとラジオから何の前触れもなく、日本の歌が流れてきた。
―――森山直太郎の「さくら(独唱)」だった。
ほぼ半年ぶりに聞いた日本の歌に、不覚にも涙がこぼれて、同時に音楽が自分にとってどれだけ大きなインパクトを持っているのかを自覚した瞬間だった。
私たちはなぜ歌うのか
「音楽って何だと思う?」と、Tが続けた。彼は頭がいいのか悪いのか、ときどき突発的に、こういう哲学的な問いを投げかけてくる。
「例えば、こうやって棒切れでテーブルをたたくだけでも音楽だろ」
音楽は祈りから始まったという人がいる。そうなのかもしれない。そうであれば、どんなに小さな部族にも音楽らしきものがあることに納得がいく。
私たちはみな、癒しを求めている。国境も人種を超えて、みんな癒されたいと願っている、ということに反論する人はいないのでは…?
歌がつなぐもの
「Dos gardenias para ti…(2本のクチナシを君に…)」
キューバの小さな街のライブハウスで、一番前のテーブルに腰かけてモヒートを飲んでいたアジア人女に向かって、ステージの上から彼はそう歌いかけた。
私は、その歌うたいのおじさんに、ちょっとドキッとした。ぜんぜん、恋愛対象ではなかったけれど、誰かが自分のために歌ってくれるというのはこんなに気持ちが動くものなのか、とびっくりしたわけ。
Buena Vista Social Club - Dos Gardenias
歌は一人で歌う場合もあるけれど、それよりもむしろ誰かと共有する、誰かに向かって歌う、いっしょに歌う、という具合に、複数人で関わることが多いのではないかと思う
ネットが普及した現在、私たちはSNSを駆使して誰かと「つながる」ことに長けている。というか「誰かとつながりたい」という欲求は、それこそ私たちのDNAに刻まれている本能なのかもしれない。
歌を歌って誰かに聞いてもらう、
誰かのために歌う、
誰かとともに音楽を共有する。
私たちは音楽というツールを用いて、太古の昔から人とつながる欲求を満たしてきたのではなかったか。
私たちは、音楽が、言語も国境も超えて人と人を結び付ける絶好の手段だということを経験から知っている。
テクノロジーと音楽
人と人をつなげる音楽、という意味で、なかなかイケてる動画があるので紹介しておきたい。
世界中に散らばる人々の歌を集めて一つの歌にまとめ上げた指揮者の話。バーチャル合唱団、でもその後ろに一人一人の「人間の声(ヒューマンボイス)」がある。
想像してみてほしい。アラスカやニュージーランド、世界にいるひとりひとりの声をビデオで撮り、指揮者がそれを集めて一つの音楽として作り上げたら、どんな作品になるだろうか―――
だから歌ってほしい
私はこうやって文章を書いているわけだけれど、その理由は「何かを伝えたい」という欲求があるから。それは、歌うたいも同じなのかな。
ただ、私は文章を書く時に「コレを誰かに伝えたい」「誰かに読んでほしい」という欲求を、比較的はっきりと自覚している。一方で、歌を歌う人は、それほど図々しくはないのかもしれない。
きっと、物書きよりも歌うたいの方が、ちょっと奥ゆかしいのだろう。
…とにかく、お気に入りの音楽に囲まれている人生は楽しい。だから、もっと歌ってほしい!