私が顔出ししない理由
私が本格的にブログを始めたのが2015年の5月で、それからツイッターやYouTube動画などのSNSも段階的に手を出しています。
ブログを始めた当初、どうやったらより効率的にブログにアクセスを集めることができるか、より多くの人に読んでもらうにはどうすればいいのか、ということについてそれなりに研究したものです。
その中で、ブランディングと顔出しについて書いている記事は、何度も見かけたことがあります。
大多数のブロガーさんが言っているのは「自分をブランディングしてファンを増やすなら、絶対に顔出しした方がいい」「顔出ししている人の方が、結果的に効率よく集客できている」という内容のことでした。当然、そういう記事を書くブロガーやライターの方は、もれなく自身も顔出ししています。
正直、「顔出し」に抵抗感はかなり感じていましたね。でも、実はYouTube動画を始めた2016年は、動画の中では私も顔出ししていたんです。それは、SEOとかアクセスアップという観点からではなく、そのとき撮っていた動画の性質上、顔出しするしかなかったためでしたが。
でもね、その顔出し動画たちは、すべて削除してしまいました。私は、どうしても今、顔を出したくないのです。
その理由は、非常に傲慢で尊大なことですが、それを承知の上で正直に告白すると「私の顔でなく、作品そのもので評価してほしい」という気持ちがあるためです。
一度顔出ししたら、もう元には戻せません。そういった意味で、以前YouTube動画で顔出ししていたころは、ほとんど閲覧数が稼げなくて、それがラッキーだったのかもしれないと思うほどです。
私は以前、中学校の美術教員を目指していました。教育実習で私が力を入れていたのは、学校の美術授業ではあまり重視されない「美術鑑賞」でした。幸い、教育実習に行った中学校のすぐ隣には県立近代美術館があり、現代アートの作品が多く所蔵されています。
そこに14~15歳の子供たちを連れていき、指定の作品について受けた印象や感想をみんなで話し合う、という授業を行いました。
子どもたちに作品を鑑賞させ、イメージさせ、その印象を容易に言語化させるために活用したのが、その作品を読み取って想像するという方法で、私たちは勝手に「国語的鑑賞方法」と呼んでいました。
選んだ作品は、ジョージ・シーガルの「煉瓦の壁ぞいに歩く男」(1988年)です。
煉瓦の壁の前を歩く男の像で、私は子供たちに「この男は何者か」「この男はポケットに何を持っているのか」「この男は何処へ向かっているのか」といった問いを投げかけました。
想像力豊かな子供たちは、とても興味深い回答を返してくれたのですが、それでも私はこの手法で果たして、この作品を本当に鑑賞したことになるのだろうか、という疑問を持っていました。この手法は単に、作品からストーリーを導き出すことへと、彼らの鑑賞方針を誘導してしまうためです。
今でも、この方法はその年代の子供たちにとって、最良のアプローチの方法の一つだったと信じています。しかし、コンテンポラリーアートの楽しみ方としては、いくらか力不足だったとも思っています。
(じゃあ、どういう風に鑑賞するのが正解なのか、という私なりの見解は、いつか記事で書ければいいなあと思います。まだまだかなり精進しないと書けませんが…)
ちょっと長々と余計なことを書きましたが、「物書き」という表現者として贅沢な驕りだと思いつつも、「顔つきやバックグラウンドでなく、その作品それだけで評価してほしい」という欲求があることを否定できません。
この記事を投稿している現時点では、私はあまり作品といえるような作品は書いておらず(動画デモ撮影していない)、そこまで顔出しに執着することはないのでは、と思う読者もいるかもしれません。
でも、将来はね、「私の作品です」と言えるようなものをクリエイトしてみたいと思っているので、その楽観的将来のために、今日も顔出しはしないのであります。